イタリアの旅

イタリアの地図

'08/8/17 仙台発(15:05)⇒ミラノ着(20:30)

'08/8/18 ミラノ市内観光 ミラノ⇒ベネチア

'08/8/19 ベネチア市内観光 ベネチア⇒フィレンツエ

'08/8/20 フィレンツエ市内観光

'08/8/21 フィレンツエ⇒ピサ ピサの斜塔半日観光

'08/8/21 フィレンツエ⇒ローマ ローマ市内観光

'08/8/22 ローマ市内観光

'08/8/23 ローマ⇒ナポリ ナポリ市内車窓から見学

'08/8/23 ナポリ⇒ポンペイ ポンペイの遺跡見学

'08/8/24 ローマ市内見学 ダヴィンチ空港 17:30 帰国

'08/8/25 12:05 仙台着

 17日 (月)  バタバタと出発

昨日は、孫を駅まで見送ってきて,ホットする間もなく、旅の準備をしました。

JAL直行便 JAL往復チャーター直行便は、福岡と,仙台からのお客様で、ボーイング747は満席なようです。

行き先、目的別に7コースのうち“イタリア休日 9日間”のツアーに参加しました。

15:05仙台空港を離陸、時差-7時間のイタリアへ、12時間の飛行です。

席数の少ない2階席は、ザワツキもなく、時折、階段を上り、降りをしながら、足腰の緊張をほぐして過ごしました。

ミラノの街 アルプス上空

シベリア上空を通過し、インスブルックから、アルプスを越えて、ミラノのマルペンサ空港に無事到着しました。

向かい風が強く、予定時刻を若干遅れ20:30頃の到着でしたが、まだ外は明るく、ムーとした熱気が身体を吹きぬけようやく無事着いたという実感がしました。

灯りが少ない道を、ミラノ中心部まで行きましたが、街はシーンと静まりかえり、深夜のような感じです。

早々に風呂に入って、休みました。


 18日 (火)  商業都市ミラノ

仙台から9,560qのイタリア半島は、1,350qの長さで、ミラノがある北西部、北東部、中北部、中南部そして南部からなります。

ミラノの街 イタリアの気候は温暖で四季がはっきりしているそうです。

ミラノは北緯45度に位置しますが、メキシコ暖流の影響による地中海性気候で、平均気温は東京とほぼ同じなようです。

ミラノ(ここをクリックしてください。)は人口は130万人、イタリア第2の都市です。

古くから「ミラノ・コレクション」などで知られる「ファッション」と「デザイン」の2大産業と、近年は航空産業、自動車産業、精密機器工業などが盛んな工業・商業都市です。

ドゥオモ スフォルツェスコ城

街の25パーセントは第2次世界大戦で破壊されたそうです。
幸いミラノ最大の建築物 で、設計に、レオナルド・ダ・ビンチも加わったという スフォルツェスコ城など,各時代のさまざまな名建築が残っています。

ドゥオモとよばれる、135本の尖塔で飾られた大聖堂は、昨年までの修復工事が終わって、白い大理石の美しさを取り戻し、壮麗に輝いていました。
両流れの大理石の屋根(屋上)に上ると、金色に輝くマリア像や尖塔が真じかに見られ、例えようのない美しさでした。

スカラ座 ヴィットリオ・エマヌエルU世ガレリア

ヴィットリオ・エマヌエルU世ガレリアは鉄枠とガラスの天井、床のモザイク、フレスコ画を持つ華やかな十字型のアーケードでした。
プラダの本店などブランドショップやカフェが軒を連ねていました。

アーケードの先には、オペラの殿堂「スカラ座」があります。
外観は地味ですが、豪華絢爛といわれる内部は、残念ながら時間が無く見学できませんでした。


ミラノ風カツレツ サフラン風味のリゾット 昼食はレストラン(Ristorante)でサフラン風味のお米の芯のあるリゾットと、薄い衣で揚げたミラノ名物カツレツを食べました。
リゾットはあまり口に合いませんでしたが、うすく叩きのばし、カリカリと焼き揚げたカツレツはなかなか美味しかったです。

交通量の少ない高速道路 白ブドウ畑

ミラノの近くの高速道路の両側は商品倉庫や工場などが並ぶ流通・工業地帯で、街を離れるにつれ、デントコーンやブドウ畑が延々と続く、農業地帯でした。

交通渋滞もなくスムーズに走ることができ、ヴェネツィアの入り口の街メストレのホテルに早めに到着しました。

 

 19日 (水)  水の都ヴェニス

swissナンバーの車 Italiaナンバーの車 franceナンバーの車 朝の住宅街

緯度の高いイタリアの朝は遅く、7時過ぎにならないと明るくなりません。
食事が終わって、出発前ホテルの近所を散歩しました。
ドングリの実が大きくなって、住宅の玄関にはサルスベリが咲いていました。
路上駐車は市街地だけではなく、住宅地でも同じでした。
ホテルの駐車場の車のナンバーは、12コの星のユーロ旗の下に国のイニシヤルのIやFがあり、スイスナンバー車もありました。

6世紀頃ゲルマン人に北イタリアが侵略され、住民は干潟の中の小さな島々に避難しました。
ラグーンと呼ばれるこの干潟に無数の杭を打ち込み、石を敷きヴェネツィアの街が作られました。
海運都市として東西貿易で巨万の富を築き繁栄しました。

ローマ広場の桟橋 リべルテ橋

イタリア本島から自動車はリベルタ橋を渡って、ローマ広場に駐車します。

ここから1番線の水上バスに乗り、サン・マルコ広場の停留場で下船しました。
水上バスが行き来する大運河からは,豪華ホテル、歴史ある優雅な数々の建築、帆船や大型客船、118の島の数ほどあるといわれる教会、また人々の生活も垣間見ることができました。

この街の一番賑わう目抜き通りは、見るものすべてが目づらしく、きょろきょろ、貴重品を気にしながら、40度近くもある暑さの中を、運河に架かる石橋を上り下りして石畳の道を歩きました。

ゴンドラ 車両の乗り入れが禁止されている水上都市ヴェネツィアは、ゴンドラもまた重要な交通手段です。

サン・マルコ広場の近くの「GONDORE」の表示のあある乗り場から、コンドリエが一本の櫂で漕ぐ黒い細長いゴンドラに乗りました。

ゴンドリエの歌うカンツォーネを聞き、静かな波のうねりを感じながら、運河(キャナル)を行く、旅情豊かなイメージを持っていました。
しかし現実は,生活排水で臭う、混雑した小運河に少し夢破れた感じもしましたが、世界に一つという水上都市はそれ以上に心引き付ける素晴らしい魅力がありました。

サン・マルコ広場 大鐘楼、この都市の象徴の有翼の獅子像に導かれてサン・マルコ広場に入ります。
大理石の敷石が美しい広場の正面には壮麗なサン・マルコ寺院、政治の中枢があったドゥカーレ宮殿や、時計台があります。

サン・マルコ大聖堂には聖マルコが安置され、マーブル模様や、ピンク、うす緑の大理石を巧みに組み合わせた外壁と、5つのドーム屋根をもつ寺院です。
内部の壁面はタイルや金箔のモザイク画で埋めつくされ、息をのむような黄金の輝きで、かってのヴェネツィアの繁栄ぶりが伺い知ることができました。

細い路地の奥にあるレストランの中庭のパラソルの下で、イカ墨のパスタと鶏肉のソティーの昼食の後、細いくねくね曲がりくねった石畳の通りに並ぶお店のショッピングや、石橋の上から通り過ぎるゴンドラを見て楽しみました。

ドゥカーレ宮殿の内部や、ヨーロッパ一古いという喫茶店など、まだまだ見たいところがありましたが、時間が限られていて残念でした。


 20日 (木)  フローレンス

ダビデ像 フィレンツェの街 糸杉とオリーブ畑

昨日はヴェネツィアから、食の街ボローニャを通り、糸杉、オリーブ畑を見ながら、アペニン山脈を越え、フィレンツェに入ったのは19時頃でした。

小高い丘のミケランジェロ広場からは、夕日に牡丹の蕾のようなドゥオモと、街並みを一望できました。

ダビデ像の付近には、未だ37℃の暑さに、涼を求めて憩う市民がいました。

シニョリーア広場 フィレンツェの市街地はバスが進入禁止で、ホテルからアルノ川沿いを歩きました。
20分も歩き、黒い石の壁で囲まれた路地を抜けると、突然オープンミュージアムのような、ネプチューンの噴水、ダヴィデ像などの彫刻群のある広場に出ました。
このシニョリーア広場には、メディチ家の宮殿であったヴェッキオ宮殿、事務館であったウフィツィ美術館や、コジモT世の騎馬像などがあり、メディチ家の権勢を今に伝えています。

メディチ家は15世紀に織物と銀行で財を築き、フィレンツェの支配者となり、その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたそうです。
また祖先の薬問屋あるいは医者から"medicine(クスリ)"の語源になったようです。

ウフィツィ美術館は、歴代当主の美術品のコレクションなどを展示する美術館となりました。
イタリア・ルネッサンスを代表するダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロなどの作品、メディチ家の公認画家、ボッティチェッリの「ヴィーナス誕生」「春」の作品が鑑賞できました。
16世紀に建設されたこの重厚な建物、特に広い廊下は美術品を一層引き立て、ルネッサンス文化の神髄に浸れる空間でもありました。

ドゥオモ広場 フィレンツェの中心の広場には「花の聖母教会」と呼ばれるドゥオモ、洗礼堂、大鐘楼の三つの建物が有ります。

ドゥオモの色大理石で装飾された壮麗・重厚な外観は息をのむ美しさです。
ドームの高さは106mで、レンガの重みに耐えられるように二重構造になっていて、ドームの天井には「最後の審判」のフラスコ画が描かれています。
数多くの芸術家が建築、彫刻、絵画を担当し、競い合いながら、完成まで600年の歳月をかけた壮大な建造物というより芸術品です。

大鐘楼は芸術家・建築家のジョットが担当しましたが3年で他界し、その後、2人が引き継ぎ、階層毎にそれぞれ違う様式で建てられていること分かります。

ドゥオモの正面に建つ八角型の洗礼堂の扉は、ミケランジェロがそのレリーフの美しさに感動し「天国の門」と絶賛したといわれています。

ヴェッキオ橋から見える風景 ウフィツィから、対岸の教会へ、メディチ家の人々が傘をささずに渡るために、14世紀中ごアルノ川に最も古い橋ヴェッキオ橋が架けられました。
橋の上の左右両側には宝石店や金細工店が連なり、ショッピングを楽しむ人々やアルノ川の景色を眺める観光客で大変な賑わいを見せていました。

フィレンツェは15世紀にメディチ家の財力による繁栄に支えられ、ルネッサンス文化、芸術が花開きました。
わずかな行き帰りの時間でしたが、こうした時代の文化遺産があちこちに残る街歩きができました。

午後からはフィレンツェからバスで1時間30分のピサの斜塔観光です。

ドゥオモ広場 ピサのドゥオモ広場には白い大理石造りのドゥオモ、洗礼堂、そしてお目当てのピサの斜塔の建物が緑の芝生と、群青色の空の下に真っ白に輝いていました。

芝生広場に憩う人々の姿は、中世の遺跡の中とは思われない、明るく開放的な都市公園にいるようです。

ドゥオモの内部の壁面は黒の大理石がボーダー模様になり、ギリシャ風の列柱、金色に輝く格子天井、金箔の地に主に青系統で描かれた壁画など、洗練された色彩と造形は現代の感覚でした。

ドゥオモの正面の洗礼堂は、八角形の素焼き瓦のドームです。
中央に洗水盤があり、女性の美しい声がエコーする音響の優れたドームでした。
人一人通れる階段を上った回廊から、洗水盤の内部、ドーム内部を見渡すことができました。

ピサの斜塔 ドゥオモの後陣に斜塔がありました。
もともと鐘楼として着工され、3層目まで工事したとき傾き、しばらく工事が中断され、 その後沈下がおさまってから、上部の層は真直ぐに建てられましたので、ドゥオモの右側面から見ると逆くの字に見えますが、それぞれ見る方向で傾きは違って見えました。

今までは、斜塔は旧市街の町かどに一つポツーンと建っていると思っていましたが、緑の芝生広場に白亜のドゥオモなどと一緒にあるとは夢にも思っていませんでした。
小学生のころ、社会の本で見た以来、想像の世界であったピサの斜塔を、いま本当に見れて感激しました。

白い大理石の照り返しで暑いのかと思いましたが、最高気温が41℃もあったようです。
バスの中で販売している1ユーロのミネラルウォーターが命の水のようでした。


 21日 (金)  ローマへ

城門から笠松並木の旧市街へ 要塞都市「オルヴィエート」

フィレンツェを8時30分に出発して、途中車窓から、要塞都市「オルヴィエート」を見ました。
イタリアが小国に分割され争っていたころ、敵の襲来を監視でき、防御しやすいこと、マラリヤなどの病気の心配ないことから、丘の上に城塞都市がつくられました。
その中でも「オルヴィエート」は大きな都市で、日本人女性が一人住んでいるそうです。

12時過ぎに、城壁から笠松(地中海性松)並木のローマ旧市街に入りました。
ローマには3日連泊し、最終日のポンペイ観光を除き、ローマ市内を観光します。

ローマのガイドは日本留学経験のある男性ガイドで、パウロさんといい、なかなか日本語が達者で、知識も豊富でした。

ミラノでは大変上手な日本人男性がガイドしましたが、イタリア人の女性も同行していました。
ヴェネツィア、ピサは現地人の男性ガイドで、日本語のギャグを飛ばし関心を引いているようなところもありました。
フィレンツェでは日本人女性ガイドがウフィツィ美術館の主な絵画を分かりやす、丁寧に解説してくれました。
イタリアではガイドはライセンスが必要で、しかもテリトリーがあるようです。
ミラノではライセンスを持っているガイドが同行したのかもしれません。

コロッセオの建築材一般入場者の長蛇の列を横目に、ツアー客はすぐ入場できるのがメリットです。
コロッセオは4階建てですが、中に入ると1階部分の天井の高さは、3,4階分もあり、現代の建築物の15階建てに匹敵するようです。
構造体は部分的に大理石も使われ、石灰岩、レンガを組み合わせ、中にコンクリートを流し込んで造られたようです。
柱の無数の穴は足場を支えた穴や、鉄筋が抜き取られた穴のようです。
紀元80年ごろ日本は、弥生時代で、茅葺の竪穴住居でしたから、ローマ人の建築技術は想像を絶する凄さです。
山登りするように石段を上り、3階の回廊まで登りました。

アレーナ全体が目に飛び込んできました。
5万人も収容して、人間と人間、猛獣と人間の死闘を、映画などで見ても、空絵ごとでしたが、ここに立っと、その壮絶さがリアルに伝わってきました。
1階は貴族,2階は一般席、3階は立ち見席で、大理石を敷いた観客席もあり、皇帝のロイヤルボックスもありました。
地下には猛獣の檻があり、アレーナの床は木の板で着脱可能で、日除けの布を張る設備もあったそうです。

この広場から、コンスタンティヌス帝の凱旋門、フォロ・ロマーノが見ることができました。

「ローマの休日」で有名になった「トレヴィの泉」、「スペイン広場」、「真実の口」は沢山の観光客で賑わっていました。
映画の力はすごいものだと感心したり、ビックリしたり、一度見て話の種になります。


 22日 (土)  バチカン市国

ヴァチカン博物館の中庭 ヴァチカン博物館の入口

ヴァチカン市国は世界で一番小さな国で、カトリック教の総本山です。
夾竹桃の咲く石段を上ると、ローマとの境界は高い城塀で囲まれていました。
左手のヴァチカン博物館の団体入口から入場し、混んでいた割にはスムーズに博物館の中庭に出ました。
中庭の両側には博物館の建物が伸び、その奥にはヴァチカン大聖堂の丸屋根が見えました。

ヴァチカン博物館は歴代の法王のコレクションを収蔵し、24の美術館・博物館からなります。

「ラオコーン」の彫刻、円形の間の彫刻や、燭台のギャラリー、タペストリーのギャラリー、地図のギャラリーの回廊を、人の流れに従い慌ただしく観賞しましたが、美術品はもちろんのこと、館内の装飾の素晴らしさに圧倒されました。

システィーナ礼拝堂美術館の奥は、システィナ礼拝堂です。

法王は非世襲で、選挙で選ばれます。
システィナ礼拝堂はコンクラーヴェという選挙会場に使われ、白い煙を出す煙突も見られました。
内部はそんなに大きくありませんが、横幅より、天井が高く、祭壇前には壁一面に縦長の、ミケランジェロの「最後の審判」のフレスコ画があります。
450のパーツに分けて、一日1枚を描くことを自分に課し、足場に乗り、横になり、逆さになって、命がけで描いたと思われます。
躍動的な色彩、迫力のある肉体美、地獄と天国に選別される残酷さを、リアルな筆致で描かれていました。
「アダムの創造」など天井や壁いっぱいに描かれたフレスコ画の新鮮な美しさに圧倒されます。
写真撮影は一切禁止されていて、私語や、祭壇前は立ち止まることも禁止されています。

サン・ピエトロ大聖堂とサン・ピエトロ広場>

サン・ピエトロ大聖堂

サン・ピエトロ大聖堂はカトリック教会の総本山で、世界で一番大きな教会です。

内部は実に荘厳で、装飾や、彫刻、絵画、どれをとっても到底言葉では言い表せない、他に類がない素晴らしさでした。
デジタル写真でも、その豪華絢爛な内部は到底表現できまるものではありませんが、拙文よりは分かっていただけると思います。
イエス・キリストの亡骸を抱きながら、悲嘆に暮れる聖母マリアのミケランジェロによる「ピエタ」像があります。
白い大理石に、手に悲しみを、慈悲に満ちた眼差しのマリアを、柔らかく、優しく見事に表現していました。

寺院の外には、バチカンの警備をする斬新なカラーとデザインの制服(ミケランジェロのデザインともいわれる)のスイス人の衛兵、聖パウロなどの像がある大きなサン・ピエトロ広場が真っ先に目に入りました。

寺院の左右には円柱284本が並ぶ回廊が半円形に配置され、上には140人の聖人像が建っています。
4列ずつ並べ配置された円柱は、広場の噴水の位置から見ると、4列の円柱が1本に重なって見えました。
広場の中央にはエジプトから運ばれてきたオベリスク(尖塔)が立っていて、信徒が目印に集まり、最大30万人が収容できるとのことです。
壮大な広場に唖然として、広場全景の写真を撮っていませんでした。いや広すぎて撮れなかったというのが正しいかもしれません。
約10億人の信者をもつカトリック教の総本山のヴァチカン市国の世界一の小国、独立国の富と権力を実感する思いでした。


午後からはローマ市内観光です。

カラカラ浴場

サンタマリア・テル・ポポロ教会ローマの北の玄関口で、ポポロ門、エジプトから持ち帰ったオベリスクがそびえ、背後には双子教会が立っています。
パンテオン世界最古の神殿で16本の円柱をくぐって入ると、直径・高さ共に43.3mの建物に、ローマ最大のドームがあります。
ナヴォーナ広場広場にはネプチューンなど3つの噴水があり、冷たい水で髪をとかしたり、水遊びをする子供たちで賑わっていました。

8月はイタリアの人々は長期のバカンスをとります。
お店もシャッターに大きな錠前をして、貼紙もなく閉めていますが、恐らく夏休みと思われます。
お陰で町の中は車も少なく、スムーズですが、この期間、町のあちこちで、工事がされ、工事用のフェンスが、雑然と立てられ、美観を損ね、通行の邪魔になっているようでした。

車窓から古代ローマ時代の遺跡を、プラタナスの並木道から見学しました。

ローマのアパートと車 イタリア人は1000年以上前から集合住宅に住んでいて、一戸建てが少なく、アパート生活が普通なようです。
車の駐車場が少なく、車庫証明が必要無く、青線が引かれた場所は駐車可能です。
大きな車は少なく、ほとんどが小型車で、ベンツの「スマート」がよく目につきました。
バンパーで押して出入れしますので、傷だらけです。洗車もあまりしないようで泥だらけで、バンバーがなくボディが凹んだ車も見られました。
信号待ちで停車している車の、フロントグラスを掃除をする商売もあるようです。


 23日 (日)  ポンペイの遺跡

ナポリへの高速道路ローマから南に230q、ナポリに向かう高速道路は車が少なく、バカンスが終わって帰る車が増えてきているようです。
今日のナポリは太陽が霧で遮られうす暗く、雑然とした街並み、ゴミが浮んでいるような岩場の海岸で、イメージしていた白い帆の船が浮かび、南国の太陽が降り注ぐ白い砂の浜辺とは少し違っていました。
サンタ・ルチアの海沿いは、王宮や卵城などの歴史の街、ホテルやピッツァの発祥地でレストランが多いリゾート地が混在していました。
大女優・ソフィア・ローレンの故郷で、映画のシーンのヒマワリを思い出しますが、途中にヒマワリ畑を多く見ることができました。
ヒマワリは食用と、バイオディーゼル燃料に利用されているようです。
イタリアは油田を持つ産油国ですが、値段は日本に比べ、高いようでした。
ガソリンスタンドが雑然と歩道にあり、国柄の違いを感じられました。

ポンペイ ポンペイはナポリから30qのところにあります。
79年8月24日に、ヴェスヴィオ火山(1281m)が大噴火を起こし、一昼夜に渡って火山灰が降り続け、翌25日に完全に地中に埋まったそうです。

1930年後に来たことになりますが、紀元前8世紀にこのような文化があったとは驚きです。
電気、ガスがないだけで、整然と区画され、道路が整備され、公共の広場があり、21世紀の現代でも理想的な都市です。

カンツォーネスムーズに帰ることができ、夕食はカンツォーネを聞きながらローマの最後の夜を楽しみました。

通りには、夕涼みしながらBARの外でおしゃべりしながら一杯飲んでいます。
イタリア人は日本と比べると夕食が遅く、私たちが引き上げる9時過ぎころから、始まるようです。


 24日 (月)  アリベデルチ・イタリア

午前中は、コンドッティ通り自由行動で、スペイン広場すぐ前のブランドショップの並ぶコンドッティ通り付近をショーウインドーを覗いたり,ぶらぶら歩きました。
有名ブランドのお店には日本人の店員さんもいます、雑貨店では、タオルやエプロンに、その場で名前を刺繍していました。
スペイン広場の前の老舗バール「バルカッチャ}で、広場の人々を見ながら、サンドイッチとコーヒーでお昼をしました。

空港近くのスーパー空港近くの大型スーパーマーケットで、イタリア最後の買い物です。
さすがスパゲティ、パスタ、ペンネが棚いっぱいに並べてありました。
リラからユーロに代わった時、物価が6倍もハネ上がって、生活が大変と聞きましたが、
それでもスパゲッティは1kgで1ユーロ、日本に比べて3分の1の安さです。
妻は沢山買い込み、スーツケースがパンパンになり、重くなりました。

イタリア人の笑顔「イタリアは何が起きても不思議のないところ」と添乗員が何度も話していました。
確かにポーターがサボタージュして、自分たちでスーツケースを部屋まで運びました。
ウエイターが朝食時間に遅れ、ハム、ベーコンがしばらく補充されなかった。
部屋の赤水、テレビが見られない。
給仕の盛り付けに明らかに差がある。
など枚挙にいとまがありません。
サービス精神は全くなく、個人主義のイタリア人、でも笑顔が素敵な異邦人でもありました。

旅行中の暑さには閉口しましたが、何事もなく、楽しい旅が無事終わって幸いでした。
見てきたこと、聞いたことをまとめてみました。間違いも多々あると思いますが、お許しください。

最後に、旅で出会った思い出のスナップをアップします。